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私にとって、絵画は必要不可欠なもの、生きることそのものといえるものだ。私は、まだ幼児であった頃に絵の世界に入った。自身も画家であり詩人であった母イレーヌが導き入れてくれたのだ。
母は、とても美しい人で、多くの画家のモデルもつとめていた。ブリュッセル王立美術院教授であったプリンゲルスもそうした画家の一人で、この大家も母の肖像画を数多く残している。
ピーテル・ブリューゲルの作品に惹かれるようになったのは、絵画と出会ってすぐの頃のことだ。これは、小学校時代の恩師アニエス・デクロムに負うところが大きい。その指導を得て、この画家の作品をじっくり3年間に渡って学ぶことができた。
私達は、しばしば、画家自身が出向いたフラーセンダールの田園地帯に出かけていっては、描かれた風景と現実の景色とを比較したものだ。雨の日曜日は、王立美術館で時を過ごした。日曜・祭日は無料で入館できる時代だったのだ。 そこで、いくつもの作品を時間をかけて鑑賞した。 ピーテル・ブリューゲルの作品の前では、以前は気付かなかった新しい秘密を見つけようと、毎回、長らく立ち止まるのが常だった。
その後、私は王立美術院に入学しマリアンヌ・ドック教授に師事する。
ある日、ひょんなきっかけで、私はモネ劇場(ブリュッセル)でバレエの公演を見ることになる。青天の霹靂というのはこういうことを言うのだと思う。まもなく、私は、モーリス・ベジャールが設立したダンススクール『ムードラ』に抜擢されるが、そこは、心ときめく素晴らしいアートの世界だった。私は、ここで、後に現代を代表する表現者となる人たちと一緒に仕事をするという栄えある経験をした。 それはまた三次元というものと出会う機会でもあった。
私の中で、舞踊、音楽、絵画が一つのものとなったのだ。
1983年、私は数ヵ月の予定で、行く場所も目的も決めず日本に向かった。サムライにあえるのかな、などと思いながら、…私は、自分が知っている世界とは不思議なあり様で違っているこの国のたちどころに魅了され、興味がどんどん膨らんでいった。
まるで、鏡の向こう側の世界にでも来たような気がした。つまり、遠慮なく、遠くから、自分の国と自分が背負っている文化と視点を変えて見る機会を得たのだ。
私は、ブリュッセル生れ、急テンポで移り変わる東京の生活に出会って30年以上が経つ。12年間鎌倉という東京近郊にある伝統の息づく美しい小都市で暮し、プロの画家として生きてきた。 前もって計画することなく、ただ感受性が示す道を感情に導かれるまま進んできた。
以上、簡潔に現在までの経歴を述べた。自分では、これが、私が芸術の世界で暮すようになった経緯を説明する最良の方法だと思っている。
私の描く絵は、自然とその放つ光、つまり、霊感が生命力の通り道を開いていく中、形や色を追い求めるように私を駆り立てるものが根源となっている。 大気と潤いを感じ取ること。 鳥の声に耳を傾けること、頬をなでるそよ風を感じること。 心を込め魂を入れて描くこと。 感じたままの景色を描くこと。 アートビジネスがしばしば押し付けてくる流行の手法やトレンドに迷わされないようにすること。 過去のものとなった芸術に未来があることを私は心の底から信じている。 今現在の芸術はその瞬間にしか存在せず、その瞬間と共に消え去るものなのだ。 芸術家が職人だった時代がある。それは誤魔化しが許されない時代だった。 目に見える結果を残すことが、風景画あるいは肖像画を描く者に要求された時代だ。今は、美術市場というものが存在し、芸術は理解が難しいものだと人に思い込ませている。景色を見て美しいと感じるか否か、そんなことは誰でも自分で判断できる。食べ物も然り。それが美味しいかどうかは誰にでも分ることだ。同じことが芸術作品にも言える。それは、自分の心が感じるもの、自分の感覚が教えてくれるものなのだから。 好きか嫌いか、それだけだ。
以下、私の制作手法について少し説明したい。
私は、純正顔料に樹脂を混ぜて作った独自の絵の具を使っている。このことで、色に比類のない透明度と力強い生命力が与えられる。
この方法は、実は、最古の絵画技法の一つなのだ。地上に出現したばかりの人類が洞窟画を描くのに使った絵の具もこうして調合されたものだ。
当時の絵の具は、粘土や植物、その他自然界に存在するものから作られた。太古の洞窟画は、湿気を帯びた壁面にこうした絵の具を塗り、松明によって乾燥させたものなのだ。
この技法が、後の『フレスコ』画法となる。この技法は、絵の具の調製が困難であるため、すっかり廃れてしまった。絵の具は使う直前に用意しなければならず、しかも、ムラが出やすく、季節によっても変化するものだったのだ。しかし、この技法は、最近になって、イタリアの美術学校で再評価されることになり、制作技法として復活している。私にこの技法を教えてくれたのは、やはり画家である8歳年上の兄である。
私は 、『キアロスクーロ』画法(明暗法)で有名なカラヴァッジオからも大きな影響を受けている。カラヴァッジオはミケランジェロと同時代のイタリアの大家である。
より精密な色使いをするため、カラヴァッジオは、夜、かすかな光を放つ燭台の下で創作活動をしたといわれている。人工照明が溢れた現代のアトリエは、色を悲しげでくすんだものにしてしまう。逆に、ほのかな明かりを頼りに薄暗いところで制作すれば、はるかに澄んだ明るい色を得ることができるのだ。
『創造』で、私は、太陽光線が照らし出すオレンジ色の花畑の風景を描いた。花一つ一つが発散している熱気と生命力が感じてもらえるのではないだろうか。水平線では、コバルトブルーの空が海の青さに溶け込み、そのことが、人を希望に溢れた自由な気分にする。一つ一つの花が協奏曲に合わせて歌い、舞う。バイオリンや銃剣を思わせる輪郭線は遥か彼方を目指して走っていく。
『月の光』では、夜の光の中に浮かび上がる同じ風景を描いた。花は青く、空は沈んでいく太陽のせいで真っ赤に染まっている。
風景の中に実存する色も、光が変わることで刻一刻と変化していく。 光のないところに色は存在しない。私は音楽を仕事をする時の伴侶としている。個々の作品は、それぞれ、ひとつのショーを構成していると思っている
私にとって色彩は人生の治療薬、日々の糧のようなものだ。
良質の食品を摂っていれば、健康でいられる可能性が高いのではないだろうか。しかるに、我々現代人は、現代社会と大都会のストレスに阻まれ、自然を眺める時間がますます短くなってきているように思う。
私は、展覧会が終る度にお礼の手紙をたくさん貰う。展覧会で出会った、それまでは絵画に関心を持ったことがなかった人達からのもので、内容は、展覧会を見てから、新しい作品に出会うことが必要不可欠になった、展覧会に足しげく通うようになった、というものだ。
アーティストにとっては最大限の賛辞といっていいのではないだろうか。
絵を描くということには大きな責任が伴う。存在しなかったものを作り出し、自分のエネルギーを自分の感情と共に他者の暮らしの中に放り込むということするのだから。
それゆえ、細心の注意を払うことが必要になる。いつ何時も自分自身と完璧に調和が取れていないといけない。一枚の絵は、幸福と心の平安をもたらすこともあれば、制作者の病いを伝染させてしまうこともある。
実際のところ、このため、現代芸術が2つの流れに分かれていったのだ。
しっかりした基礎に基づき伝統に根付いた創作活動が続けられた一方、約束事から離れ、形にも色にも囚われることなく闇雲に着想を追い求めるという流れが生まれた。これが前世紀の美術界に大きな変化、さらには、論争を引き起こすことになった。
昨今は、想像力と芸術的センスがはき違えられてもいる。私自身は、自分自身に忠実であることの重要性を常に自覚している。
人に善を施せば、善は自分自身に跳ね返ってくる。
人に悪をなせば、悪は自分自身を押し流してしまう。
このことに気が付いていることが成功のための秘訣のひとつなのだと思う。
パトリック・ジェロラ
小便小僧(マヌケンピス)はベルギーのシンボルでもあり、ジェロラの創作に大きな存在となりました。彼のためには愛の証であり、その起源を表します。
「私は私の国における活きたシンボル、好感的で、庶民的な小便小僧に平面の絵を描くことと同じ絵を描き調和させ作品にしました。そしてそれぞれの色に描かれた小便小僧はまた第二の人生を生きるのです。」
小便小僧を初めて見た時こんなにも世界的に有名で知られているのにあまりにも小さいのに驚きます!
「子供頃ブリュッセルの街角で小便小僧の像を見つけて喜ぶ大勢の人達を覚えています。また、こうした人達が62センチしかないこの像の小ささに少しがっかりしていること。そこで私は高さ220センチの小便小僧を造形し絵を描いた作品はこうした人々を幸せにする私からの贈り物です。
ベルギーブリュッセル国際空港に同サイズの作品が展示されています。
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